2017年10月21日土曜日

車の免許 - Driver's Licence.




取得前夜 


私が初めて車の免許を取得しようと思ったのは、高校生の頃だった。

私の日常の交通手段は、「徒歩・バス・鉄道・自転車」のいずれかにほぼ限られていて、普通乗用車(いわゆるクルマ)に乗る機会は滅多にない。そもそも車に興味がないこともあり、基礎知識自体がゼロに等しい。

家から5分ほど歩けばバスの停留所が2箇所あった。駅に行くのにも自転車で20分ほどあればたどり着いた。なので大雨が降った日の外出や、古本屋に本を大量に売りにいく時に「もしも車があったら便利だろうな」と思うことはあったが、逆にいえばそれ以外の時に車の必要性を感じたことはなかった。

高校生当時は、今みたいにインターネットも携帯電話も一般にはまだまだ普及していなかった。年齢的に、周りのクラスメイトにも免許を持っている人は当然いないので、情報を知りたければ書店で参考書を買うぐらいしか術がなかった。自動車免許までの段取りを漫画で紹介した取得マニュアルの本を買い、そこで初めて「マニュアル」「オートマ」の2種類が存在することを知った。ただし当時は性能の仕組みの違いではなく「操作が難しいか楽か」「必須講習数が多いか少ないか」で覚えたのみだった。


私は1978年生まれである。世代的に、小学校入学の頃に任天堂がファミリーコンピュータを発売している。またテレビアニメではドラゴンボールの初代が開始された頃にあたる。学校に行けばファコミンやドラゴンボールの話題が出ることはあったが、誰それちゃんの家にすごい車があるなどの話題は出たことがない(あったかもしれないが、まったく記憶にない)ので、車のない生活は事実だったが、それを理由に引け目を感じたことも一度もなかった。


車を欲しいとも乗りたいとも思わなかった。いや、今でも全く思っていないので、過去形ではなく現在形で断言しても構わない。

仮にフォーブスに掲載されるような世界有数の金持ちになったとしても、車は最低限しか所有しないか、あるいは全く所有しないと思う。そしてそれを嗅ぎ付けたマスコミに「稀代のケチ」「東洋の恥」「富裕層がこんなことだから、世の経済が回らないでは?」と叩かれるのだろう、と他人に打ち明けると、必要のない未来像のためか、必ず笑われる。


そんな私が高校生の時に車の免許を取得しようと思った理由はただひとつ。信頼性の高い身分証明証が欲しかったからだ。

私の学生の頃は個人情報を扱う概念も今ほど厳格ではなく、住基ネットやマイナンバーなどの制度もなかった。家族に免許証を持つ人はいたので、実物を見て触れたことがある私は、「車なんて興味ないけれど免許だけは持ちたい」と漠然と思い始め、法的に免許取得が可能な年齢となる高校生の頃には、その思いは確信に近づいていった。

私が免許を取得したいと言った時、母は「お前を産まなければ良かったと心から思った」という。車で事故を起こした場合を危惧してのことだ。面と向かって何度言われたか分からない。私が「車なんて興味ない。免許を持ちたいだけ」と何度言っても信用しなかったが、実際に取得してからも私が、車を買いたい、運転したいなど車の話を一切語らない様子を見て、ようやく納得したようだ。


教習所時代 


地元の自動車学校に通い始めた。取得にかかるコストも時間も最小限にしたいため、迷わずAT車コースを選んだ。

初めてシートに座った時、シートベルトを締めた時、差し込んだキーをひねってエンジンを入れた時、サイドブレーキを下ろした時、アクセルを踏んだ時、クリープ走行を防ぐためブレーキを踏みっぱなしにし始めた時。今でも覚えている。

緊張はしなかったが、実感も湧かなかった。

男性の教官に「本当に初めて? 普通もっと嬉しそうに操作するんだけどね」と不思議そうに言われた。私の場合、別に車の操作なんてしたくもないから嬉しい理由がないので「車なんか好きじゃないから別に嬉しくなんかありません」と正直に答えた。するとものすごく驚いた顔で「じゃあなんで免許取ろうと思ったの?」と聞かれたので「身分証明になるものがほしかったからです」とこれまた正直に答えた。

「車なんて人殺しの道具になってしまうし、高い買い物だし、排気ガスをまき散らすし、洗車も大変だし、良いことなんて何もないじゃないですか」と私が言うと、教官は笑って「若いなあ。でもその内に家庭持ったら変わるかもしれないよ。でもちゃんと安全に運転できてるからもったいないね」と言った。

教習所で車の運転を習っている最中に「車なんて人殺しの道具」と言い切った私は、若さとはいえ、やはり変わっている、と思う。

教習所に入所したときにパンフレットを貰った。表紙をめくった次の見開きページでは、アメリカだろうか、どこかの広大な土地を車が悠々と走行している写真とともに「車があると生活が広がる。車を運転するって、すごいことだったんだね」的なキャッチコピーで、いかにも「車が運転できるとバラ色の生活が待ってます」と謳っていた。一方、初回の講習では「購(あがな)いの日々」を音読させられたりもした。どちらも自動車運転者の天国と地獄には違いないが、今思い出してもあまりに極端だ。「購いの日々」を読まされたときは、「生活が広がってもやっぱり車なんか乗るもんじゃない」「人殺しの道具だと思った俺は正しい」「バラ色の生活なんて、実際には血で未来も何もかも赤く染めてしまう生活かもしれない」と思ったものだ。


興味がない割に実技も筆記も順調に進んだ私は、やがて車の免許を取得した。

最後は府中の試験場で交付を受けたが、職員の態度が異様に悪かったのを今でもハッキリ覚えている。

のちの様々な場所で、学校の同級生や職場の同期の人で、車が大好きなのに筆記テストなどで落ちてしまいなかなか取得できない輩から「なんでお前みたいなヤツが取れて俺が取れないの? 許せない! 免許ちょうだいよ」と面と向かって言われることもあった。

「車なんて興味ない」

「じゃあなんで免許を持とうと思ったの?」

「身分証明が欲しかったから」

「身分証明のための免許なら、車じゃなくても原付でもいいじゃない?」

ある時、こんな話の流れになった。相手の疑問はもっともなことだ。

実は私は車に興味がなさすぎて、免許に複数の種類がある(原付でも免許足りうる)ことや、免許に数年おきの更新が必要なこと(そして更新には費用もかかる)を知らなかった。高校生の免許取得を決意した時、これらを知っていたら「更新のたびに費用がかさむのは嫌だから」という理由で取得は目指さなかった可能性もある。取得した今となっては、5年に1度の更新費用を惜しんで失効になるのも損なので、惰性で更新している。


現在、


運転免許証は、厳密には「日本国内に限り普通乗用車の運転をする資格を有することを証明する」ものである。「身分証明証」では決してない。しかし現実には免許を差し出されて、顔写真まで掲載されているので、「本当にあなたの免許ですか?」と疑う人間はいない。ゆえに事実上の正式な身分証明証として完全に信用されている。

その意味では、免許証に、アルファベット表記でローマ字読みのふりがながつけられていたり、血液型の記載があれば、より完璧なのになと思う。これを人に言うと、免許にそんなものを要求するなんて、お前は考え方が間違っていると突っ込まれる。いずれも、免許証を身分証明の道具として捉えているから出てくる考えなのだろうが、車を運転していて突然の事故に巻き込んだ場合や巻き込まれた場合、参考程度にでもそれらの情報があったほうが何かと物事が円滑に進むのではと思う。


日常の中で、たまに車の運転の話になる。サイドバーの位置について、私がドライブモードのD以外を言えないままだと、周りから「そんなんでゴールド免許持ってるの?」「絶対に、絶対に! 運転するなよ! 酔っぱらい運転よりも危険だから」と怖い目で厳命される。私としては、周囲の言い分も分かるけれど、サイドバーという代物を覚えていただけで褒めてほしいのに、なぜみんながそこまで怖い顔をするんだろうと腑に落ちない気分になる。

実技試験を一度で通過したことを思い出話で振り返ると、「車に触ったこともないのに、S字クランクや縦列駐車も一発でできたの?」と驚かれる。それらは、教習所では実際の道路よりもかなり広い道路幅が用意されていると事前に聞いていたので、異様にゆっくり運転した結果、さほど苦労しなかった記憶しかない。

教習所で車の勉強をしていた時、最も苦しんだのは道路標識の暗記だった。標識のことを「マーク」と呼んで教官に怒られたこともあった。種類の多さに目を回して、それでも苦労をして覚えたが、むしろこれだけが今でも役立っている。標識の意味を知っていると、車でなくとも、外を移動する際に、安全のための有用な情報になるからだ。


高校を卒業した後に、紆余曲折を経て専門学校生になった。当時地元の書店でアルバイトをしていたが、車の話になり「男は社会に出ると営業行かされる。 AT 限定は解除できるから早い目にしたほうがいいぞ」と店主から言われ、再度教習所通いを始めた。

アルバイト先の書店にCD販売コーナーがあった。テレビCMタイアップの一覧を集めた分厚い冊子があったが、それを見ては、車の広告の多さ、そこから派生するコマーシャルソングの多さに圧倒された。車は裾野の大きい産業とはよく聞くが、異業種にも深く根ざしているから、車について「人殺しの道具」「排気ガスをまき散らす、環境を汚すもの」と否定するだけでは終わらない。当時、トヨタ自動車のプリウスがテレビCMを放送し始めていたが、そのひとつが「トヨタが変わらないと、地球が変わってしまう」というキャッチコピーだった。誇大広告になっていないところがすごいと思った。


体で覚えたことは忘れないとよくいわれるが、私は成人になってから指一本触れていない。別の表現でいえば21世紀に入ってから全く触れていない。空白期間が長過ぎるので、おそらく、車の操作はきれいさっぱり忘れている。

ペタルについても、今ではアクセル、ブレーキ、クラッチの位置をなんとか覚えているぐらいで、今ではAT、MTに関わらず、多分基本的な運転は一切できないと思う。

それでも教習所で頑張っていた頃、生意気にも、車の運転というのは意外と難しくないんだなと思ったのをよく覚えている。

きっと私は、車の運転について、誰よりも甘く考えている。


ここ何年かは、車の免許更新の知らせが来るたびに、優良運転者講習で30分費やす場所は一貫して都庁に決めている。交通の便がいいのが一番の理由だ。記憶が正しければゴールドに認定されてからはずっと都庁で済ませている。5年に1度なのに、職員の愛想が異様に悪いのが印象に残り「せめて挨拶ぐらいすればいいのに。相手の顔を見て話せばいいのに」と思う。ただ、2017年に利用した時は、なぜか挨拶をしてくれてみなさんそれなりに愛想が良かった。


世における車の事情。


近年、高齢運転者の車の操作ミスが原因と思われる、悲惨な事故がよく報道される。

当然ながら「高齢になると自分が思っている以上に体の衰えが進み、瞬発力も判断能力もなくなる。ブレーキやハンドルを若い頃の感覚で使っていると取り返しのつかない大惨事になる。だから高齢者は免許を返納しなさい」という論調がおこる。

一方で、「地方では車がないと生活ができない。地方では車は贅沢じゃない、生活必需品だ。自分の足と同じだ」という反論も、非常によく聞く。

個人的にはどちらも正しいと思う。鉄道やバスなど交通インフラが高度に発達した都市部と、隣のスーパーや駅に向かうだけでも、車以外では移動がほとんど不可能な地方と。日本が現在抱える、早急に解決すべき社会問題のひとつだろう。


ただ、このあたりの話題は、東京の交通事情の感覚しか知らず、車そのものを知らない自分が、議論に参加すべきでないという思いが常にある。



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