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2016年10月21日金曜日

車の免許 - Driver's Licence.


取得前夜 


私が初めて車の免許を取得しようと思ったのは、高校生の頃だった。

私の日常の交通手段は、「徒歩・バス・鉄道、あるいは自転車」のいずれかにほぼ限られていて、普通乗用車(いわゆるクルマ)に乗る機会は滅多にない。そもそも車に興味がないこともあり、基礎知識自体がゼロに等しい。

高校生当時は、今みたいにインターネットも携帯電話も一般にはまだまだ普及していなかった。年齢的に、周りのクラスメイトにも免許を持っている人は当然いないので、情報を知りたければ書店で参考書を買うぐらいしか術がなかった。自動車免許までの段取りを漫画で描いた取得マニュアルの本を買った。そこで初めて「マニュアル」「オートマ」の 2 種類が存在することを知ったが、性能の仕組みの違いではなく「操作が難しいか楽か」「必須講習数が多いか少ないか」で覚えたのみだった。


家から 5 分歩けばバスの停留所はあった。駅にも自転車で 20 分ほどでたどり着いた。なので大雨が降った日の外出や、古本屋に本を大量に売りにいく時に「もしも車があったら便利だろうな」と思うことはあったが、逆にいえばそれ以外の時に車の必要性を感じたことはなかった。

私は 1978 年生まれである。世代的に、小学校入学の頃に任天堂がファミリーコンピュータを発売している。またテレビアニメではドラゴンボールの初代が開始された頃にあたる。学校に行けばファコミンやドラゴンボールの話題が出ることはあったが、誰それちゃんの家にすごい車があるなどの話題は出たことがないので、車のない生活は事実だったが、それを理由に引け目を感じたことも一度もなかった。


車を欲しいとも乗りたいとも思わなかった。いや、今でも全く思っていないので、過去形ではなく現在形で断言しても構わない。

仮にフォーブスに掲載されるような世界有数の金持ちになったとしても、車は最低限しか所有しないか、あるいは全く所有しないと思う。そしてそれを嗅ぎ付けたマスコミに「稀代のケチ」「東洋の恥」と叩かれるのだろう、と他人に打ち明けると、必要のない未来像のためか、必ず笑われる。


そんな私が高校生の時に車の免許を取得しようと思った理由はただひとつ。信頼性の高い身分証明証が欲しかったからだ。

私の学生の頃は個人情報を扱う概念も今ほど厳格ではなく、住基ネットやマイナンバーなどの制度もなかった。家族に免許証を持つ人はいたので、実物を知っていた私は、「車なんて興味ないけれど免許だけは持ちたい」と漠然と思い始め、法的に免許取得が可能な年齢となる高校生の頃には、その思いは確信に近づいていった。

私が免許を取得したいと言った時、母は「お前を産まなければ良かったと心から思った」という。車で事故を起こした場合を危惧してのことだ。面と向かって何度言われたか分からない。私が「車なんて興味ない。免許を持ちたいだけ」と何度言っても信用しなかったが、実際に取得してからも私が、車を買いたい、運転したいなど車の話を一切語らない様子を見て、ようやく納得したようだ。


教習所時代 


地元の自動車学校に通い始めた。取得にかかるコストも時間も最小限にしたいため、迷わず AT 車コースを選んだ。

初めてシートに座った時、シートベルトを締めた時、差し込んだキーをひねってエンジンを入れた時、サイドブレーキを下ろした時、アクセルを踏んだ時、クリープ走行を防ぐためブレーキを踏みっぱなしにし始めた時。今でも覚えている。

緊張はしなかったが実感も湧かなかった。

教官に「本当に初めて? 普通もっと嬉しそうに操作するんだけどね」と不思議そうに言われた。私の場合、別に車の操作なんてしたくもないから嬉しい理由がないので「車なんか好きじゃないから別に嬉しくなんかありません」と正直に答えた。するとものすごく驚いた顔で「じゃあなんで免許取ろうと思ったの?」と聞かれたので「身分証明になるものがほしかったからです」とこれまた正直に答えた。

「車なんて人殺しの道具になってしまうし、高い買い物だし、排気ガスをまき散らすし、洗車も大変だし、良いことなんて何もないじゃないですか」と私が言うと、教官は笑って「若いなあ。でもその内に家庭持ったら変わるかもしれないよ。でもちゃんと安全に運転できてるからもったいないね」と言った。

教習所で車の運転を習っている最中に「車なんて人殺しの道具」と言い切った私は、若さとはいえ、やはり変わっている、と思う。

教習所に入所したときにパンフレットを貰った。表紙をめくった次の見開きページでは、どこかの広大な土地を車が悠々と走行している写真とともに「車があると生活が広がる。車を運転するって、すごいことだったんだね」的なキャッチコピーで、いかにも「車が運転できるとバラ色の生活が待ってます」と謳っていた。一方、初回の講習では「購(あがな)いの日々」を音読させられたりもした。どちらも自動車運転者の天国と地獄には違いないが、今思い出してもあまりに極端だ。「購いの日々」を読まされたときは、「生活が広がってもやっぱり車なんか乗るもんじゃないなあ」「バラ色の生活なんて、実際には血の色で未来も何もかも赤く染めてしまう生活かもしれない」と思ったものだ。


興味がないくせに実技も筆記も順調に進んだ私は、やがて車の免許を取得した。

最後は府中の試験場で交付を受けたが、職員の態度が異様に悪かったのを今でもハッキリ覚えている。

のちの様々な場所で、学校の同級生や職場の同期の人で、車が大好きなのに筆記テストなどで落ちてしまいなかなか取得できない輩から「なんでお前みたいなヤツが取れて俺が取れないの? 許せない! 免許ちょうだいよ」と面と向かって言われることもあった。

「車なんて興味ない」

「じゃあなんで免許を持とうと思ったの?」

「身分証明が欲しかったから」

「身分証明のための免許なら、車じゃなくても原付でもいいじゃない?」

ある時、こんな話の流れになった。相手の疑問はもっともなことだ。

実は私は車に興味がなさすぎて、免許に複数の種類がある(原付でも免許足りうる)ことや、免許に数年おきの更新が必要なこと(そして更新には費用もかかる)を知らなかった。高校生の免許取得を決意した時、これらを知っていたら「更新のたびに費用がかさむのは嫌だから」という理由で取得は目指さなかった可能性もある。取得した今となっては、 5 年に 1 度の費用を惜しんで失効になるのも損なので、惰性で更新している。


現在。


運転免許証は、厳密には「日本国内に限り普通乗用車の運転をする資格を有することを証明する」ものである。「身分証明証」では決してない。しかし現実には免許を差し出されて、顔写真まで掲載されているので、有効期限外であっても「本当にあなたの免許ですか?」と疑う人間はいないから、事実上の正式な身分証明証として完全に信用されている。

その意味では、免許証に、アルファベット表記でローマ字読みのふりがながつけられていたり、血液型の記載があれば、より完璧なのになと思う。これを人に言うと、免許にそんなものを要求するなんて、お前は考え方が間違っていると突っ込まれる。いずれも、免許証を身分証明の道具としてしか捉えていないから出てくるセリフだが、項目があっても、いいと思う。


日常の中で、たまに車の運転の話になる。サイドバーの位置について、私がドライブモードの D 以外を言えないままだと、周りから「そんなんでゴールド免許持ってるの?」「絶対に、絶対に! 運転するなよ! 酔っぱらい運転よりも危険だから」と怖い目で厳命される。私としては、周囲の言い分も分かるけれど、サイドバーという代物を覚えていただけで褒めてほしいのに、なぜみんながそこまで怖い顔をするんだろうと腑に落ちない気分になる。


教習所で車の勉強をしていた時、最も苦しんだのは道路標識の暗記だった。標識のことを「マーク」と呼んで教官に怒られたこともあった。種類の多さに目を回して、それでも苦労をして覚えたが、むしろこれだけが今でも役立っている。標識の意味を知っていると、車でなくとも、外を移動する際に、安全のための有用な情報になるからだ。


高校を卒業した後に、紆余曲折を経て専門学校生になった。当時地元の書店でアルバイトをしていたが、車の話になり「男は社会に出ると営業行かされる。 AT 限定は解除できるから早い目にしたほうがいいぞ」と店主から言われ、再度教習所通いを始めた。

アルバイト先の書店に CD 販売コーナーがあった。テレビ CM タイアップの一覧を集めた分厚い冊子があったが、それを見ては、車の広告の多さ、そこから派生するコマーシャルソングの多さに圧倒された。車は裾野の大きい産業とはよく聞くが、異業種にも深く根ざしているから、「車なんて人殺しの道具」「排気ガスをまき散らす、環境を汚すもの」と否定するだけでは終わらない。当時、トヨタ自動車のプリウスがテレビ CM を放送し始めていたが、そのひとつが「トヨタが変わらないと、地球が変わってしまう」というキャッチコピーだった。誇大広告になっていないところがすごいと思った。


体で覚えたことは忘れないとよくいわれるが、私は成人になってから指一本触れていない。つまり 21 世紀に入ってから全く触れていない。空白期間が長過ぎるので、おそらく、車の操作はきれいさっぱり忘れている。

ペタルについても、今ではアクセル、ブレーキ、クラッチの位置をなんとか覚えているぐらいで、今では AT 、 MT に関わらず、多分基本的な運転は一切できないと思う。

それでも教習所で頑張っていた頃、生意気にも、車の運転というのは意外と難しくないんだなと思ったのをよく覚えている。

きっと私は、車の運転について、誰よりも甘く考えている。


おまけ。


念のために。私は車に興味がないだけで、決して嫌いはありません。否定はしていません。

よく指摘されるのが、「車が要らないと断言できるのは東京の感覚です。東京では交通機関が発達しているので、車を持つ必要を感じなくても変じゃないですが、地方だと、車がないと生活になりません。一家に一台ではなく、一人一台は当たり前なんです」というものです。

車に関する私の認識は、知らず知らずのうちに、東京の感覚を押し付けているのかもしれません。


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